基本內(nèi)容
幼名加賀壽丸。拜領(lǐng)尊氏一字,改名氏綱。公綱提兵上洛,遂在南朝方作戰(zhàn),而氏綱留守領(lǐng)地,卻率一族投北朝麾下。公綱在北畠顯家麾下進攻鐮倉的足利義詮,宇都宮家以“紀黨”芳賀禪可的意見舉兵援義詮,敗于顯家。后仍從義詮與南朝軍相抗。正平六年(1351)足利尊氏、足利直義斗于關(guān)東,氏綱從尊氏,力戰(zhàn)利根川、駿河薩埋等地。正平十八年(1363)關(guān)東管領(lǐng) 足利基氏疑其叛,奪宇都宮家臣芳賀禪可之越后守護職,氏綱獨往小山陣地謁見基氏,證己之無異心,卒賴以無事。
は鎌倉時代末期から 南北朝時代にかけての武將。宇都宮氏第八代。父は宇都宮公綱。母は千葉宗胤の娘。
父が南朝側(cè)に仕えたのに対し、氏綱は北畠顕家が上洛途上で鎌倉を攻撃したとき、顕家から離反して足利尊氏の家臣として仕えた。そして尊氏の下で武功を挙げたため、上野と越後の守護職を與えられ、鎌倉公方として赴任してきた足利基氏の家臣として仕えた。しかし上杉憲顕と対立したことから基氏の怒りを買ってその追討を受け、守護職を剝奪された。基氏死後の1368年、これに不満を覚えていた氏綱は反亂を起こしたが、今度は基氏の子?足利氏満の追討を受けて降伏した。一命こそ助けられたが、失意のうちに1370年7月5日に45歳で死去した。